テセウスの船
古代ローマ時代の著述家であるプルタルコスは、「英雄伝」の中でこのようなことを著述している。
テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウス[注釈 1] の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。(引用元:Wikipedia「テセウスの船」)
元々あった船が古くなったり壊れて行った際、新しい部品に交換されていった。すべての部品が置き換えられてしまったとき、その船がオリジナルの船(テセウスの船)と同じものだと言っていいのか?という疑問。
そして交換された部品で組み立てられた別の船があるとしたら、それはどちらが本物のテセウスの船と言っていいのだろうか…
という同一性をテーマにした哲学のお話
例えば、愛着のある車ならどのあたりまで改造してもいい?
釣りならどのあたりから誰かと交代しても釣ったことになる?
美容整形ならどこまでならその人の顔と言える?
「おじいさんの古い斧(Grandfather’s old axe)」とは、本来の部分がほとんど残っていないことを意味する英語での口語表現である。すなわち、「刃の部分は3回交換され、柄は4回交換されているが、同じ古い斧である。」この成句は冗談として、明らかに新しい斧を掲げて「これはジョージ・ワシントンの使った斧で…」などと使われる。(引用元:Wikipedia「テセウスの船」)
この場合は、使い続けているのなら同じと言ってあげたい(笑)
「愛着」がアイデンティティだから!
自分に置き換えてみる
これがもし誰かの人生なら?
全て誰かの指示で勉強し、誰かの命令で進路を決め、誰かの願いで結婚し…
と自分でやることを決定せず、誰かの意志で生きているとしたらそれは自分の人生といえるのだろうか?
受験だって、自ら考えることなく誰かが組んだスケジュールに従い、朝から晩まで指示通りに勉強。
何がポイントなのか、何が面白いのかを考えることもなくマシーンのように受験を終えたら、それは自分でつかみ取った合格と胸を張って言えるのだろうか…
言えなくもないが、なんとなく釈然としない気がする
自分の場合、そのサポートの加減を常に気にしている。
なんでもかんでも口をだし、完全管理してしまうと「生徒の勉強」ではなくなってしまうと考えているから。
そらプロなので「あーやって、こーやって、あーすれば」どこどこ高校に合格させるなんて全然難しいことではない。
でも、それは子供のためにはならないと思う。
主体はあくまでも生徒自身
子供の人生の主人公はその子自身であってほしいのだ。
自分が成長していくのを自分の力だと感じて欲しいから。
塾の役目は芽が出てしまえば、あとはお水と栄養管理をしてあげるくらいの脇役で十分。
だから巣立つ生徒たちも同じ扱い
実績だって東大だから目立つように書くとか専門だから書かないとかは絶対にしない。
それは塾人である前に人としての在り方かなと。
ちなみに同一性で言うと、この塾「WAKE!」は自分がいなくなった時点で「WAKE!」ではなくなる(笑)
どこまで自分でやるかの割合にもよるが、たまに見かけるくらいならいないのと同じだろう
どこまでを同一とみなすか…
人によって考え方が変わる面白いテーマだと思う。
みなさんの周りではどんなことがテセウスの船になりますか?
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