今年のお盆休みはシュノーケリングやキャンプをしようと思っていたのに・・・
台風や雨の影響でほぼ全滅(泣)
でもこのまま終るわけには・・・
ど~ぉこ~かぁ~と~ぉぉく~へ~い~いって~み~たぁ~い~
「じゃぁ、どこ行くの?」
「奈良でしょ!」
林先生よろしく、奈良へ一人旅に出かけた。
一度生徒を連れて奈良時代を勉強しに来たいと常々思っていた。
加賀温泉駅から電車で約2時間半。
遠くもなく近くもなくってところか・・・
JR奈良駅ではせんと君がお出迎え
あまりの可愛さに、あとで生のせんと君を捕獲しようと心に誓う。
奈良時代といえば聖武天皇の東大寺、仏教を中心とした平城京が舞台。
「戒律」という言葉をご存知だろうか?
これには2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。
仏教が日本に伝来したのが6世紀前半、それから約200年後の奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていたという。
朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。
とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっているとんでもない状態だった。
この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。
つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。
そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けたのだ。
当時、遣唐使は命がけだった。
派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけで、半分以上が遭難していた。
733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着した。
しかし当時、唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。
国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。
2人は授戒師を探し続けた。
唐の各地を歩き回ること9年目、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。
鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。
鑑真には多くの高弟がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。
栄叡と普照は高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。
2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。
しかし、弟子達は生命の危険を心配し、手を上げるものはいなかった。
「ならば、私が行きましょう」
鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。
そんな師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。
その時、すでに鑑真は54歳。
当時の寿命を考えるとかなりの高齢だ。
ところが、せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。
唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかったのだ。
出国は極秘作戦となった。
東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だったのだ。
何度も渡航に失敗したが、第1回の密航計画から11年、6度目でようやくその悲願が達成された。
その過程で栄叡は亡くなり、鑑真は失明してしまう。
754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着した。
鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。
東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。
755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。
戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。
これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。
ところが朝廷の思いとは違って、鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではなかった。
正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだったのだ。
彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。
一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。
両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。
鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。
「こんなハズでは…」と思い落胆するが、鑑真は既に70歳。
海を渡って唐に戻る体力はなかった。
鑑真には新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜され、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いた。
それが鑑真の私寺となる『唐招提寺』である。
「招提」は“自由に修行する僧侶”という意味。
この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。
鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだという。
唐招提寺の創建から4年後の春、鑑真は故郷のある西に向かい、座禅をしたまま亡くなったという。
今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。
1250年前にそんな聖人が日本にいたのだ。
そんな日本の仏教界に大きな影響を与えた鑑真和上の痕跡を辿るため、唐招提寺をまず最初に訪れた。
JR奈良駅からバスで20分。
西ノ京というエリアに唐招提寺はある。
奈良時代の建物や鑑真と共に来日した仏師たちによる仏像、鑑真和上の功績、今でもそれが保存されているという日本ならではの環境に涙。
これこそ日本が誇るべき文化なのである。
政権が変わると全部を破壊してしまう異国ではありえない話。
奈良や京都を訪れるなら前もってある程度歴史の勉強をしておくと楽しさ100倍。
生徒と来るなら奈良時代と、その当時の人達の熱き思いを勉強させておくと心が震えるほどの感動をしてもらえるはず。
そんな日本の歴史に触れ、すばらしい旅になりそうな予感と共に唐招提寺から歩いて10分の薬師寺へ向かった。
続く・・・